2014年9月1日月曜日

竜馬がゆく(6)戦雲

当時長州では、勤皇派が京都の蛤御門の変などで惨敗し、結果的に藩政府は勤皇派が追い落とされ佐幕派が権力を握りましたが、それに対抗する勤皇派が佐幕派にしかけた絵堂戦争によって、藩内がまたもや大きく変わりました。

2014年8月28日木曜日

竜馬がゆく〈5〉摂津神戸村〜薩と長〜元治の暮

蛤御門の変によって長州が惨敗し、神戸海軍操練所からも多くのものが長州軍に参加をしたということもあり、神戸海軍操練所は解散、勝海舟も江戸に召喚が決定し、更には幕府は長州征伐も決めました。

2014年8月27日水曜日

竜馬がゆく〈5〉菊の枕

竜馬は風のように伏見の寺田屋に戻って来たのはいいけれども、何か浮かない表情だったので、お登勢と問答を繰り返していると、神戸の海軍操練所の解散が決まり、そのため竜馬が浮かない表情だったのです。

2014年8月26日火曜日

竜馬がゆく〈5〉変転

蛤御門の変が終わり、幕府は長州狩りをはじめました。蛤御門の変で長州側には土佐浪人が参加したということもあり、神戸海軍塾にも幕府の手が入る気配となってきました。また、この項ではついに薩摩の西郷と竜馬が会談をします。

2014年8月25日月曜日

竜馬がゆく〈5〉流 燈

竜馬は江戸の千葉道場で池田屋ノ変の詳細を知りました。その後、勝海舟宅に行き、翌日には神戸塾での事態の収拾のため大阪に向かうことになりました。

2014年8月21日木曜日

竜馬がゆく〈5〉池田屋ノ変

勝海舟に江戸へ来いと呼ばれて江戸に向かった竜馬ですが、京都では来島又兵衛や長州周辺の様子がおかしいということで、新選組が探索を始めました。これがきっかけで古高俊太郎が逮捕され、これが元で池田屋ノ変がおこり、時代は一気に流動化します。

2014年8月20日水曜日

竜馬がゆく(5)防長二州

この項では、長州の来島又兵衛が主役になります。禁門の変を引き起こした中心人物ですが、愛すべき人柄のエピソードもたくさんある人です。僕も結構この人のことは好きですね。

2014年8月19日火曜日

竜馬がゆく〈4〉元治元年

大久保一翁から預けられた神戸海軍塾の練習船観光丸で神戸に戻ると、勝海舟から大阪に来いということだったので、練習を兼ねて神戸から大阪城まで観光丸で向かいました。

2014年8月18日月曜日

竜馬がゆく〈4〉片袖

竜馬にも土佐藩の藩吏が神戸海軍塾まで来て帰国を命じました。もちろん、これは竜馬だけではなく、海軍塾にいる土佐藩のものをしょっぴいて、武市半平太同様投獄することが目的でした、竜馬はあっさり拒否、自動的に脱藩という形になりました。さすが^^

2014年8月15日金曜日

竜馬がゆく〈4〉江戸の恋〜惨風

京都で朝廷から長州勢力が一掃される自体になり、神戸海軍塾では塾生が動揺しましたが、竜馬はくれぐれも暴発するなと言い含めて、今や事務官僚の府となっている江戸に向かいました。

2014年8月14日木曜日

竜馬がゆく〈4〉京の政変

この時期は文久3年。西暦で言うと1863年でこの年の8月にいわゆる朝廷の長州勢力を一掃する薩摩と会津が首謀した8月18日の政変がおこりました。この項ではどういうことが元も原因で、それがどういう結果になったかと言うことがよく書かれています。

2014年8月12日火曜日

竜馬がゆく〈4〉 東山三十六峰

寺田屋にいる竜馬に、新選組の藤堂平助が訪ねてきました。先日、竜馬と新選組がやりあっている場にいたということもありましたし、北辰一刀流では竜馬と平助は先輩後輩の関係ということもありました。そこで清河八郎が暗殺されたことを竜馬は知りました。

2014年8月11日月曜日

竜馬がゆく〈4〉 物情騒然

土佐藩では隠居をしていた山内容堂が、藩政に復帰しして、勤皇派を弾はつし始めました。まずは青蓮宮の令旨で土佐藩をトップを勤皇派に変えたということで、平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太に5月に下獄し、6月に切腹を命じました。

2014年8月8日金曜日

竜馬がゆく(4)神戸海軍塾

越前藩が5000両を神戸海軍塾への投資を決め、その報告をしに、竜馬は勝海舟がいる神戸海軍塾の普請場に戻りました。しかし当時普通の漁村であった神戸に着目した勝海舟の眼力はさすがという感じがします。

2014年8月7日木曜日

竜馬がゆく〈3〉京の春

丹虎で武市半平太と上京する勝海舟を殺すなと念を押した竜馬は、土佐藩河原町藩邸に戻り、岡田以蔵に同様のことを伝えました。しかし、以蔵は武市らに勝は奸賊であると教わっているということもあり、動揺します。

2014年8月5日火曜日

竜馬がゆく〈3〉 伯楽〜嵐の前〜海へ

後日、勝海舟が軍艦奉行並という幕府の高官にもかかわらず、軽々と桶町の千葉道場まで竜馬を迎えに行き、築地にある軍艦操練所に連れて行ってくれましたよ。

2014年6月26日木曜日

竜馬がゆく〈3〉勝海舟

御用から戻ってきた千葉重太郎が竜馬に対して、勝海舟の暗殺を持ちかけます。本当に竜馬が勝海舟を切りに行くことで知り合ったのかどうかは、これは司馬さんの創作のようですね。

2014年6月24日火曜日

竜馬がゆく〈3〉流転〜生麦事件

島津久光が京都で兵を上げないと言うことがはっきりして、竜馬は急に手持ち無沙汰になり、江戸の千葉道場に行くことにしました。

2014年6月23日月曜日

竜馬がゆく(3)追跡者〜寺田屋騒動

竜馬は、沢村惣之丞の手引で脱藩し、まずは先に脱藩している吉村寅太郎に会うために、まず長州に向かいましたが、すでに吉村寅太郎は京都に上っており、竜馬らは彼らを追って京都に向かいました。

2014年6月19日木曜日

竜馬がゆく〈2〉 土佐の風雲〜脱藩

長州から戻った竜馬を待っていた武市半平太に竜馬は、長州藩も土佐藩と同様佐幕派が幅を利かせていることを報告。半平太も落胆します。結局竜馬は脱藩、半平太は吉田東洋を暗殺し、土佐藩内の政権交代を目指すことになりました。

2014年6月18日水曜日

竜馬がゆく〈2〉待宵月〜頑固家老〜萩へ〜希望

この時期になると、武市は京都に政権を移すために、まず土佐での政権を奪還するべく、家老の吉田東洋の暗殺を計画していました。

2014年6月17日火曜日

竜馬がゆく〈2〉風雲前夜

竜馬が帰郷すると、すでに武市半平太も高知に帰っており、瑞山塾を作って、後進を教育していました。

2014年6月12日木曜日

竜馬がゆく(2)若者たち〜旅と剣〜京日記

この頃になると、竜馬も江戸の土佐藩士においては年頭になってきて、若い藩士たちから慕われるようになってきましたが、ここで後の同志となる中岡慎太郎と出会います。

2014年6月11日水曜日

竜馬がゆく〈1〉江戸の夕映え〜安政諸流試合

竜馬が江戸に千葉道場に戻ると、千葉貞吉も重太郎も、大喜び。重太郎は八寸という小柄で美しい女性と結婚をしていました。

2014年6月10日火曜日

竜馬がゆく〈1〉 寅の大変〜悪弥太郎

冴と逢っている時に、大地震が起こり、竜馬が急いで土佐藩邸に戻ると、土佐が壊滅したという報に竜馬は震え上がります。急遽土佐にも戻ることとしました。

2014年6月9日月曜日

竜馬がゆく〈1〉朱行燈〜二十歳〜淫蕩

竜馬が黒船騒動から道場に帰ってくると、泥棒の寝待の藤兵衛が待っていて、竜馬に仇討ちの話を持ちかけてきました。つまり、藤兵衛が深川で買った娼婦が実は武家の娘で、その父が信夫左馬之助に殺されたので、その助太刀をしないかというものでした。(この登場人物はすべて司馬さんの創作です)

2014年6月6日金曜日

竜馬がゆく〈1〉千葉道場〜黒船来


竜馬が江戸の下屋敷に到着をすると、武市半平太と同室ということがわかり、うんざりします。堅苦しい半平太と一緒だと、息が詰まるというものです。龍馬伝はつまらなかったけれども、大森南朋はカッコ良かったです。

2014年6月5日木曜日

竜馬がゆく(1)お田鶴さま〜江戸へ

お田鶴さまは、竜馬にとっては最期まで付き合いのある女性で、司馬さんの創作した人物ですが、この人を登場させるについてはモデルが当然用意されていて、平井加尾がお田鶴さまのモデルと言われています。龍馬伝では広末涼子が演じましたね。

2014年6月4日水曜日

竜馬がゆく(1)門出の花

今日から司馬遼太郎さんの名作中の名作、「竜馬がゆく」をスタートさせますので、何卒よろしくお願い申し上げます。この本は僕がその後様々な本を読むきっかけになった本ですので、丁寧に掘り下げて行きたいと思います。

2014年5月21日水曜日

播磨灘物語(4)尼崎〜遠い煙

毛利との講和も済み、明智光秀との決戦をするべく、上方に向かうことについては、秀吉は「中国大返し」と唱え、また、この時期における軍事行動の作戦はほぼすべて官兵衛から出たと司馬さんは書いてあり、僕もそうだったと思います。

2014年4月23日水曜日

播磨灘物語(4)東へ

毛利との戦場外交がおわり、秀吉と官兵衛は織田家の誰よりも早く明智光秀を討つために、撤退の準備にはいりました。これは明智光秀との決戦に遅れるということは、次の天下の継承問題に大きく関わるので、秀吉たちは用意周到に準備をして、かつ、迅速に行動をしなければいけませんでした。

2014年4月18日金曜日

播磨灘物語(4)変報


6月2日、明智光秀が中国に向かう途中、今日に南下し、本能寺に織田信長及び信忠親子を襲うという本能寺の変が起こりました。具体的には信長は本能寺、信忠は妙覚寺に滞留していました。

2014年4月17日木曜日

播磨灘物語(4)安国寺殿


小早川隆景から清水宗治に対して、信長に味方をせよという密使を送ったことは、司馬さんが言うには、眼前の宗治を救えない以上、そう言うしかなく、戦国時代おいて稀有な温情であると評しています。

2014年4月15日火曜日

播磨灘物語(4) 備中の山〜備中高松城


秀吉軍が備中の城を攻略するために、西に向かったのは、天正10年4月で、早々に攻撃を開始しました。まず攻撃をしたのは、宮地山城と冠山城で、冠山城には宇喜多勢をつかい、宮地山城は秀吉軍本体が攻撃をしました。両城ともあっさり攻略しました。

2014年4月7日月曜日

播磨灘物語(3)山陽道

天正10年、中国の戦いに一段落ついた羽柴秀吉は、安土の信長に対して歳暮を届けました。その歳暮は、秀吉が新占領地で得た富をすべて持ち込んでくるような、大掛かりなもので、信長は秀吉のことを大気者といって大いに喜びました。

2014年4月4日金曜日

播磨灘物語(3)野火

官兵衛は、三木城のことが落着したということもあり、また、秀吉から西播州の代官を少しの間やってくれという気配りもあったので、まず御着城に入り、その後姫路城に入りました。

2014年3月26日水曜日

播磨灘物語(3) 別所衆

官兵衛は、1月ほど有馬で静養をしましたが、波多野氏、荒木氏が滅び、もう少し静養するように言われましたが、三木城が陥落した後に帰陣をしたのでは、本人の面目も立たないので、早々に三木城に向かいました。

2014年3月25日火曜日

播磨灘物語(3) 夏から秋へ〜村重の落去

この時期、織田軍が進めている作戦は4つで、対本願寺、対三木城、対荒木、対波多野氏で、この4つの勢力の共通点は毛利氏と手を組んでいるというもので、彼らは毛利からの支援があるということもあり、織田との戦いに踏み切ったという側面があり、毛利もできるだけそれに答えようと、必死の努力を重ねていました。

2014年3月24日月曜日

播磨灘物語(3) 藤の花房

官兵衛は相変わらず牢に閉じ込められたままの状態にあり、茨木城、高槻城を傘下に収めた織田軍は、伊丹城(有岡城)の総攻撃を天正6年12月8日に行った。結局この有岡城の戦いはこのあと9ヶ月続く事になります。

2014年3月20日木曜日

播磨灘物語(3)摂津伊丹2

信長にあっさり切られてしまった官兵衛でしたが、それ以上に追い込まれたが高山右近で、荒木を裏切らなければ、尽くキリスト教を潰すということは、敬虔な信者である右近は相当きつい状況に追い込まれました。

播磨灘物語(3)御着城〜摂津伊丹1

荒木村重が謀反をしたことで、官兵衛の立場が実に微妙な状況になりました。それは、官兵衛の主君である小寺藤兵衛が、裏切るのではないかということでした。

2014年3月18日火曜日

播磨灘物語(2)村重

官兵衛が阿閇城の戦いで毛利・雑賀党を駆逐し、宇喜多直家を調略している頃、荒木村重の謀反ということが起こりました。もし、ここで荒木が謀反ということになると、秀吉・官兵衛は地理的に西から毛利→宇喜多→小寺(秀吉・官兵衛)→別所→荒木という状況になり、完全に戦略的に孤立してしまいます。

2014年3月17日月曜日

播磨灘物語(2)秋浅く

織田と毛利の上月城をめぐるにらみ合いは、尼子勝久の切腹、山中鹿之介の降伏もあって、終了し、播州は織田軍の兵隊で充満しました。播州に来ている織田軍は、織田信忠を総指揮官としてその参加に、秀吉、滝川一益、明智光秀、荒木村重、筒井順慶、稲葉長通、峰屋頼隆、信長の次男信雄、信孝らでした。


2014年3月14日金曜日

播磨灘物語(2)風の行方



別所氏が織田氏と対決することを決めて、その別所系となる豪族の名前と地域をチェックしてみましょう。黄色が別所系の城で織田としてはこの黄色の城群を攻撃して潰していく必要がありました。

2014年3月13日木曜日

播磨灘物語(2)三木城


別所氏の本拠である三木城は、加古川城の北東に位置していて、更にその東が今で言うと、神戸市、西宮市、大阪の伊丹市という位置になります。ここに別所賀相が中心となって、織田との戦いを決めてしまいました。

2014年3月12日水曜日

播磨灘物語(2)加古川評定

秀吉が、上月城、佐用城を落としたことを報告するべく、安土に向かい、その後本拠の長浜に戻って、兵を集めて、結局7500人の兵を引き連れて播州入りをしました。今後の対毛利戦についての打ち合わせを播州の豪族とするべく、加古川で会議を開くことになりました。

2014年3月11日火曜日

播磨灘物語(2)半兵衛

官兵衛はここで運命的な出会いをします。それは竹中半兵衛重治と進行を深めるに至るのは、この秀吉の姫路入りからです。

2014年3月7日金曜日

播磨灘物語(2)播州騒然


羽柴秀吉は天正5年10月19日に播州に向かうべく、安土城に勢揃いしました。

2014年3月4日火曜日

播磨灘物語(2)野装束

天正に入ると、織田家は色々と大変になります。巨大な敵である上杉謙信との対峙。松永久秀の裏切り。本願寺や毛利との戦いでの惨敗。そのため、秀吉や明智光秀は多忙を極めていきます。

2014年3月3日月曜日

播磨灘物語(2)信長〜英賀の浦

官兵衛は信長の元に行くことになり、ここから官兵衛の人生が大きく変わる出会いがあり、本書は更に面白くなってきます。

2014年3月1日土曜日

播磨灘物語(1)の口コミをチェックしてみました

播磨灘物語(1)は、主人公は黒田官兵衛ですが、今までお話をしてきたようになかなか本人が出てきません。まずは、黒田家の成り立ちとはどういうものだったのかということを詳細に記して、官兵衛を登場させています。これは僕は思うに、小寺の渦中において官兵衛は一部から極端に嫌われたということを、敢えて読者に知らせるという目的があったのかと考えています。

2014年2月28日金曜日

播磨灘物語(1)白南風(しろはえ)

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
年が元亀から天正にあらたまり、播州は黒田官兵衛が仕える小寺氏、別所氏、赤松氏などが小競り合いをするようないかにも地方の田舎大名のやりとりが続いていた。ところが、中央では天正3年織田氏と徳川の連合軍が長篠で武田勝頼を率いる武田軍と決戦し、圧勝した(長篠の戦い)ことで「織田は終わりではないか」という風評がひっくり返ってしまっていました。

2014年2月27日木曜日

播磨灘物語(1)潮の流れ

この頃の小寺家は、黒田家の力ということもあり、域内は安定していました。仮に敵が来てもすぐに半鐘がなる仕組みができているので、簡単に撃退をすることも出来ました。

2014年2月26日水曜日

播磨灘物語(1)若き日々〜青い小袖

20代の官兵衛は、京都で色々なことを学び、遂に司祭ビレラから洗礼を受け、洗礼名として「シオメン」を与えられる事になりました。この辺りは、軍師官兵衛では触れられないところですね。どうしてでしょうか。

2014年2月25日火曜日

播磨灘物語(1)夏の雲〜姫路村〜彩雲

黒田重隆は、黒田家に伝わる目薬で大変な財をなしました。どれだけなしたかというと、数年で被官になったものが200人。この200人というの1万石の大名の動員力があるという意味です。ちなみに被官と言うのは、武士で言うと家来のことを言います。

2014年2月24日月曜日

播磨灘物語(1)流離〜播州〜広峰

記念すべき最初の作品をなににしようかとずっと考えていまして、大河ドラマの「軍師官兵衛」が放映しているということもあり、また、日本史でも過小評価されている黒田官兵衛という人物を多くの人に知ってもらいたいということもあり、まずは「播磨灘物語」について書いていこうということに決めました。

はじめに

はじめまして。

僕にとって司馬遼太郎さんの存在はとても大きくて、彼が1996年に亡くなった時のショックは今でも心に残っています。