2014年2月25日火曜日

播磨灘物語(1)夏の雲〜姫路村〜彩雲

黒田重隆は、黒田家に伝わる目薬で大変な財をなしました。どれだけなしたかというと、数年で被官になったものが200人。この200人というの1万石の大名の動員力があるという意味です。ちなみに被官と言うのは、武士で言うと家来のことを言います。

夏の雲


この重隆の息子兵庫助(官兵衛の父)の代で小寺家の家来となっています。軍師官兵衛では片岡鶴太郎が小寺政職(まさもと)を演じてますね。鶴ちゃんには合ってる役だと思います。この小寺家が御着にあります。後のことですが、小寺家は織田につくか毛利につくかでもめて、織田家につくけれども、荒木村重が織田信長に反乱を起こした時に、荒木につき、荒木滅亡後、逃亡、最終的には黒田官兵衛に拾われ、黒田家に仕えることになります。

御着城跡公園
兵庫県姫路市御国野町御着 ‎

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御着城(全国の城兵庫32)

御着城で兵庫助と小寺政職が対面し、当時小寺家には軍隊を指揮できる侍大将がいないために、当時黒田家の良い評判を聞いていたということもあり、兵庫助は大変優遇され、1年で一番家老に引き立てられます。ただ、なにもせずに一番家老になっても周囲の反発を買うということもあり、香山加賀守という者の首を上げて、小寺の信頼を得て、且つ、空き城になっていた姫路城を拝領します。そして、官兵衛はこの姫路城で生まれます。

姫路市にある官兵衛ゆかりの地

姫路城地図

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姫路村


ここで、官兵衛が登場します、やっと。幼名は萬吉と称したけれども、黒田家の嫡男ということもあったにも関わらず、貴族的な育てられ方はしなかったようだと司馬さんは書かれています。この時は官兵衛も子どもなので、父の兵庫助の状況のほうがとても大事です。この頃、小寺家より姓を賜り、小寺家を名乗ります。これは司馬さんの説明によると
重臣に寝首を掻かれた例は無数にあり、信頼できる器量人の心をできるだけ濃い関係にして繋ぎとめておきたかった。姓をあたえて、一門並みいすると言うのは、そういう事情から出ていた。
黒田家としても、小寺の姓を名乗れば対外的にメジャーなので、一番家老として相手と折衝する上でもはくがつくというメリットもありました。

(引用:軍師官兵衛>登場人物)
その後萬吉は14歳で元服し、官兵衛孝高と名乗り、小寺藤兵衛の近習となり御着城で寝起きするようになります。当時戦国時代ですから、周囲の敵との戦いでは、父兵庫助が小寺家の筆頭家老として采配を握っているので、藤兵衛の床几周りに控えて、使い番の仕事をしました。この場合の使い番とは、伝令として戦争の前線の状況を藤兵衛に伝えることが仕事でした。そして官兵衛20歳の時に後の筆頭家老となる栗山善助が仕えることになります。軍師官兵衛では、濱田岳くんがいい味を出してます。

官兵衛21歳の時に結婚をします。櫛橋氏との結婚で、この間に入ったのが小寺藤兵衛で、これも優秀な家老である黒田家と関係を深めておくというのが藤兵衛の狙いです。結婚の翌年父の兵庫助が引退。官兵衛に家督を譲ります。藤兵衛は最初驚きますが、官兵衛が兵庫助よりも力量があるということが、兵庫助にも藤兵衛にも分かっていたので、ここに22歳の筆頭家老が誕生することになりました。

彩雲


若くして家老になった官兵衛ですが、小寺家古参のものからは毛嫌いされることが多くなりました。理由としては
  • 官兵衛自身が黒田家3代目ということもあり、新参者としての引け目がない
  • しかし、小寺家古参の者達は、黒田が小寺家に流れ込んできた歴史を知っている
  • しかも、官兵衛は22歳の若造である
という理由です。この時の嫌われ方が、のちに荒木村重に幽閉される原因の一つになったとも言えなくもありません。

永禄8年(1565年)官兵衛は栗山善助一人を連れて、藤兵衛の許可を得て京都に行きます。この京都訪問で官兵衛は重要な出来事に遭遇をします。

  • キリスト教徒の出会い
  • 和田惟政(室町幕府幕臣)との出会い
です。当時の南蛮寺は

四条坊門姥柳町(中京区蛸薬師室町西入ル)にあり、現在ですと京都市の中京区役所の東南方向。当時の絵画が残っております。
(引用:神戸市立博物館蔵都の南蛮寺図
官兵衛がなぜ南蛮寺に惹かれたのかと言えば、外国の新しい知識が得られるという知的好奇心。これは信長も同じですね。それとキリスト教の神の前では誰もが平等であるということもあり、田舎の土豪のような官兵衛でも南蛮寺では和田惟政のような室町幕府幕臣とも普通に話ができるというメリットがあったからです。

また、和田のような幕臣においても、室町幕府が有名故実の存在に成り果ててしまっている現状。当時の将軍は足利義輝。しかし武力も政治力もない将軍家なので、実際に京都を牛耳っていたのは、三好三人衆松永久秀でした。そういう状況なので、幕府を復興させるためには、地方の実力のある土豪と好を結ぶ必要が和田にもあり、ただ、幕臣と土豪とでは身分がかけ離れているために、南蛮寺のサロンでないと普通にコミュニケーションが取れないという実情もありました。この和田を通して官兵衛は将軍義輝に拝謁し、播州に戻ると、今度はその義輝が三好三人衆と松永久秀に殺されます。(永禄の変)この時の義輝の辞世の句が残っています。

五月雨(さみだれ)は露か涙かほととぎす
わが名をあげよ雲の上まで

この後、官兵衛は藤兵衛の許可を得て京都を再訪します。