2014年2月24日月曜日

播磨灘物語(1)流離〜播州〜広峰

記念すべき最初の作品をなににしようかとずっと考えていまして、大河ドラマの「軍師官兵衛」が放映しているということもあり、また、日本史でも過小評価されている黒田官兵衛という人物を多くの人に知ってもらいたいということもあり、まずは「播磨灘物語」について書いていこうということに決めました。

この本は、豊臣秀吉の作戦参謀として大きな力を発揮した黒田官兵衛が主人公で、秀吉が天下取りをするまでの戦いはほぼすべて官兵衛による作戦でした。ただ、戦国時代系のドラマでは官兵衛はかなり過小評価されているし、実はとんでもなく凄い人だったんだよということを司馬遼太郎さんは読者の方にお伝えしたかったんだと思います。ちなみに、黒田官兵衛の息子である黒田長政福岡藩54万石の祖となっております。

福岡藩領域図(慶長期)

流離

まずは、播磨灘物語1巻「流離」から入って行きましょうか。1巻は当分官兵衛は出てきません。まずは黒田家が小寺家の家老になるまでの家の成り立ちの説明が延々と続きます。

もともと黒田家と言うのは近江の黒田村よりでているということになってます。司馬さんがまずこの本を書くに当たり、どういうところかタクシーで行っている。引用すると、
伊香郡黒田村というのは琵琶湖の北東にあたり、いまは木之本町に含まれているらしい。
どのあたりなのか、Google Mapで調べてみました。

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こうやって見ると、長浜市の北でもあり、長浜市は秀吉が初めて信長から大名にしてもらった場所でもあり、そこそこ人の繋がりというのは、やはり「縁」というものがあるのかなと思ってしまう感じですね。

播州


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そして、官兵衛の曾祖父である高政がこの近江から出て、縁もゆかりもない備前福岡村に移住をして、ここで、黒田家の基礎ができるようです。福岡村と言うのは、今の岡山県瀬戸内市長船町福岡というところになっていて、そこには妙興寺というお寺があり、
この寺の墓地に、官兵衛の曾祖父高政の墓も、祖父の重隆(注:軍師官兵衛では竜雷太が演じていました。)の墓もある。
そして、重隆の代になり、東の播州に移動することになります。この播州という土地は、当時は余り評判のいいところではなく、いわゆる「下克上」が起きてしまっているところで、昔の守護であった赤松氏が衰えてしまい、別所氏や小寺氏が勃興してきている土地柄のようでした。重隆はここで姫路に移り、そこで竹森新右衛門という大地主に知り合い、新右衛門も重隆が貧しくても、毅然としている態度を見て、高貴な人物に違いないと思い、傾倒していき、結果的には押しかけ家来というような形となり、歴史的には黒田家の家老として明治を迎えるということになっています。

広峰

そして、この重隆が黒田家に伝わる目薬を播州一体で広めることで、一気に勃興しました。そのきっかけは何故か周りの人々が重隆を押し立てようとする動きがあり、重隆自身もそれに乗るだけの器もあり、結局地元の名士である広峰氏との謁見まで、ことが運ぶようになります。
広峯神社
こちらのサイトでも、広峯神社と重隆の因縁が記載されています。
http://kamnavi.jp/it/kinki/hiromine.htm
室町時代、浪々に身で広峯社を信仰する黒田重隆夫妻と子息兵庫助夫妻(その若い妻には黒田官兵衛孝高がみごもっていたのである)が、或る日参詣し、当社神主の種々の指導支援により財を得て御着城主、姫路城主となり黒田官兵衛は豊臣秀吉の軍師として活躍した事は有名である。




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