2014年4月23日水曜日

播磨灘物語(4)東へ

毛利との戦場外交がおわり、秀吉と官兵衛は織田家の誰よりも早く明智光秀を討つために、撤退の準備にはいりました。これは明智光秀との決戦に遅れるということは、次の天下の継承問題に大きく関わるので、秀吉たちは用意周到に準備をして、かつ、迅速に行動をしなければいけませんでした。

2014年4月18日金曜日

播磨灘物語(4)変報


6月2日、明智光秀が中国に向かう途中、今日に南下し、本能寺に織田信長及び信忠親子を襲うという本能寺の変が起こりました。具体的には信長は本能寺、信忠は妙覚寺に滞留していました。

2014年4月17日木曜日

播磨灘物語(4)安国寺殿


小早川隆景から清水宗治に対して、信長に味方をせよという密使を送ったことは、司馬さんが言うには、眼前の宗治を救えない以上、そう言うしかなく、戦国時代おいて稀有な温情であると評しています。

2014年4月15日火曜日

播磨灘物語(4) 備中の山〜備中高松城


秀吉軍が備中の城を攻略するために、西に向かったのは、天正10年4月で、早々に攻撃を開始しました。まず攻撃をしたのは、宮地山城と冠山城で、冠山城には宇喜多勢をつかい、宮地山城は秀吉軍本体が攻撃をしました。両城ともあっさり攻略しました。

2014年4月7日月曜日

播磨灘物語(3)山陽道

天正10年、中国の戦いに一段落ついた羽柴秀吉は、安土の信長に対して歳暮を届けました。その歳暮は、秀吉が新占領地で得た富をすべて持ち込んでくるような、大掛かりなもので、信長は秀吉のことを大気者といって大いに喜びました。

2014年4月4日金曜日

播磨灘物語(3)野火

官兵衛は、三木城のことが落着したということもあり、また、秀吉から西播州の代官を少しの間やってくれという気配りもあったので、まず御着城に入り、その後姫路城に入りました。