秀吉軍が備中の城を攻略するために、西に向かったのは、天正10年4月で、早々に攻撃を開始しました。まず攻撃をしたのは、宮地山城と冠山城で、冠山城には宇喜多勢をつかい、宮地山城は秀吉軍本体が攻撃をしました。両城ともあっさり攻略しました。
備中の山
ちなみに冠山城の守将は林三郎左衛門重真、宮地山城は乃美兵部。
次の加茂城は、守将は毛利から派遣されている桂民部大輔広重で、彼の末裔が桂小五郎であり、桂太郎であったり。秀吉方は、この城を攻略するにあたり、東を守る生石中務少輔を落としましたが、毛利から生石をもう攻撃したためにあっけなく崩れてしまい、裏切った生石も行方不明になってしまいました。
日幡城では日幡六郎兵衛100人では防ぎきれないということもあり、城主として毛利から派遣された上原元将が700人の家来を連れて入城しましたが、上原は六郎兵衛を殺し、秀吉に寝返りました。
備中高松城
そして高松城攻めということになり、配置は南東に秀吉軍1万5千、北に宇喜多1万、門前陣所に5千という状況でしたが、いかんせん人数が足りず、秀吉は官兵衛と調整の結果、信長に出馬してもらうように決めましたが、甲斐武田氏の掃滅にあたっていたので、信長にはそういう状況にはありませんでした。
〔高松〕高松城の水攻め|岡山市|観光・文化・イベント|地域別イベント・観光情報
こうやって見ると、高松城周辺は水回りが良すぎるために、大雨がふると上の写真のようになってしまいます。実際に秀吉がどういうやり方をしてたかというと、
詳細はこちらから見れますが、門前陣所から蛙ケ鼻までを今の国道180号線に、位置的に沿った感じで築堤したものだと思われます。
この秀吉が構築した堤は実に大規模なもので、司馬さんの言葉によると
高さは四間、基脚(当時の用語で言えば根敷)の幅は十二間、頂上(馬踏)の幅は六間である。
これが4キロ続いていて、これを12日間で完成させてしまったというものでした。ちなみに間というサイズは、一間=181cmなので、それをここで計算をしてみると相当大きい堅牢なものだということがわかります。
そしてこの築堤が完成すると、当時梅雨と言うことがあったものの、とてつもない大雨が降り、高松城は湖の中に浮いている城のようになりました。
この後、毛利方の小早川隆景が日差山、吉川元春が岩崎山、毛利輝元が幸山城に着陣し、秀吉軍とはにらみ合いになりました。
この状況で、秀吉はわざと毛利とは決戦をせず、信長を迎えるために様々な時間稼ぎを指定て、その一環として毛利方に対して調略を引き続き進めていました。その結果毛利方は、全軍を救うためにも高松城に籠もる清水宗治に対して、秀吉に降伏するよう密使を送りました。