2014年4月17日木曜日

播磨灘物語(4)安国寺殿


小早川隆景から清水宗治に対して、信長に味方をせよという密使を送ったことは、司馬さんが言うには、眼前の宗治を救えない以上、そう言うしかなく、戦国時代おいて稀有な温情であると評しています。

安国寺殿

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清水宗治

小早川隆景からの伝言を伝えた宇多田小四郎に対して、清水宗治がしたことは、自分が腹を切って責任を取るので、自分以外の城兵の命を救って欲しいということを羽柴に伝えてくれというものでした。清々しいですね。清水宗治が後世どれだけ評価をされたかというと、彼だけのウェブサイト清水宗治ウェブというサイトがあるということだけでもわかります。


毛利においては、吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊の最高会議において、清水宗治が奔敵しないということが明確になったこともあり、織田に対して5カ国を割譲することで講話することを決めました。
割譲する国は
  • 備中
  • 備後
  • 美作
  • 因幡
  • 伯耆

と毛利家版図の約半分でした。これは何故そこまで譲歩をしたかというと、信長がこの戦場に来ると決戦をせざるを得ず、決戦をすれば確実に負けて滅亡してしまうので、そうならないために織田への機先を制するためにもここまでの譲歩は必要でした。安国寺恵瓊はその交渉をするために、小早川隆景の日差山陣所から、秀吉の蛙ケ鼻陣所に行き、その交渉相手が蜂須賀小六と官兵衛でした。

恵瓊は、ここで二人と交渉し、秀吉側としては
  • 秀吉個人は毛利の対応について好意をもっている
  • 5カ国割譲することについては15日ほど時間がほしい
    ー恵瓊は使者が安土へ往復する日数であるということを察した

ということで、秀吉として信長に対して立つ瀬をつくらないと行けないということまで察し、清水宗治がいる高松城に向かいました。この場合、秀吉の立つ瀬というのは、秀吉はあくまでも信長の代官なので、立場としては信長に対して備中における戦勝を示す必要があり、清水宗治の首を送るということで、それがないと、秀吉は信長に対して毛利の講和をを周旋することが出来ないということも、恵瓊は察し、宗治に対して自殺をするよう勧告することを独断で決めました。

この場合この独断というところが大事で、もし自殺勧告が小早川隆景の命で来たということになると、宗治を救援すると言って大軍を擁しながら、結局は毛利のためにと言って、宗治に自殺を強いると宗治が取りかねなく、毛利としては大きな痛手を被る可能性が大いにありました。

それを恵瓊の独断で腹を切ってくれということになると、自分の死によって大毛利を救うという宗治の感情が大いに高揚するというものでもありました。

宗治は恵瓊と話をして、自分が死ぬことによって毛利が救われるのであれば喜んで腹を切ると。ただし、自分の死が犬死になることだけは物笑いのためになるから、そうならないようにくれぐれも秀吉に念を押してほしいということを強く言いました。恵瓊は高松城から秀吉陣所で官兵衛に宗治との会見を伝え、更に秀吉と直接会い、秀吉も一命をかけて約束を守ると断言し、恵瓊も急いで小早川隆景がいる日差山に向かいました。

そこで最終的に宗治に腹を切らせるということで決し、小早川隆景と吉川元春が毛利当主の輝元に本件に付き報告をしたところ、輝元はそれに対してそれはいけないと異を唱えました。これは輝元が宗治に腹を切らせるということを公的に異を唱えることで、毛利家の面目が立ち、家臣や郎党に対しても面目がたち、そういう状況であったことを小早川隆景が恵瓊に伝え、恵瓊もその呼吸はわかるので、頷きました。

その後恵瓊は、秀吉のもとに赴き、輝元が異議を唱えたことを、敢えて伝え、秀吉もその呼吸がわかるので、それは毛利としては当然だが、話が前に進むためには宗治の首が必要だということを伝え、恵瓊は羽柴側の証人、蜂須賀小六と生駒甚介とともに、宗治のところへ行き、宗治も爽やかに腹を切ることを伝えました。




この項は、秀吉、官兵衛、小早川隆景、安国寺恵瓊のやりとりが、相手の心の先の先の先を読んだやりとりを司馬さんが見事に書いいていて、特に読み甲斐ある項でした。

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