2014年4月23日水曜日

播磨灘物語(4)東へ

毛利との戦場外交がおわり、秀吉と官兵衛は織田家の誰よりも早く明智光秀を討つために、撤退の準備にはいりました。これは明智光秀との決戦に遅れるということは、次の天下の継承問題に大きく関わるので、秀吉たちは用意周到に準備をして、かつ、迅速に行動をしなければいけませんでした。



東へ

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撤退についてはお互いに監視者をつけるべく、秀吉方からは森勘八高政が毛利に向かいました。監視者という名の人質で、もし秀吉が毛利を裏切った場合には殺される運命にありました。結論から言うと、勘八は殺さるどころか、毛利の総帥輝元から愛され、毛利氏を称する事願い入れられ、秀吉からの許可も得たということもあり、毛利を称することになります。

撤退に際して、まず、裏切る危険性の高い宇喜多をまず撤退させ、殿を官兵衛がすることになりました。この殿軍の殿軍を母里太兵衛、先方を栗山善助がつとめました。

6月4日の夜、毛利方も本能寺で信長が死んだことを知り、異様な緊張の空気に包まれていました。


その後秀吉は講和の誓紙を安国寺恵瓊の前で書き、血判をつきました。その誓紙を受け取った恵瓊は小早川隆景がいる日差山に向かいました。

毛利では、秀吉を追撃するべきだという吉川元春と、戦いは終わったのだから、撤退するべきで、その撤退で秀吉に恩を売るべきであるという小早川隆景が対立をしましたが、総合的に考えて、秀吉の恨みを買うよりも恩を売るべきだということになり、毛利方も撤退をしました。

また、秀吉の殿軍である官兵衛が撤退をする上で、高松城の堀を決壊したこともあり、物理的にも毛利方に追撃はできない状態ではありました。秀吉は岡山、西片上と移動し、拠点の姫路城に到着したのは、8日の午前でした。


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