東へ
撤退に際して、まず、裏切る危険性の高い宇喜多をまず撤退させ、殿を官兵衛がすることになりました。この殿軍の殿軍を母里太兵衛、先方を栗山善助がつとめました。
6月4日の夜、毛利方も本能寺で信長が死んだことを知り、異様な緊張の空気に包まれていました。
その後秀吉は講和の誓紙を安国寺恵瓊の前で書き、血判をつきました。その誓紙を受け取った恵瓊は小早川隆景がいる日差山に向かいました。
毛利では、秀吉を追撃するべきだという吉川元春と、戦いは終わったのだから、撤退するべきで、その撤退で秀吉に恩を売るべきであるという小早川隆景が対立をしましたが、総合的に考えて、秀吉の恨みを買うよりも恩を売るべきだということになり、毛利方も撤退をしました。
また、秀吉の殿軍である官兵衛が撤退をする上で、高松城の堀を決壊したこともあり、物理的にも毛利方に追撃はできない状態ではありました。秀吉は岡山、西片上と移動し、拠点の姫路城に到着したのは、8日の午前でした。