潮の流れ
官兵衛夫婦は、のちのことを話せば、長政一子だけしか作らず、官兵衛自身も側室を置かなかったということからも、仲の良い夫婦のようでした。ただ、播州時代は妻に対しては用向きのことや世上のことは一切話さない。話してしまうと、話した内容が妻の実家に筒抜けになってしまうからでした。この当時は、戦国時代ですから、ちょっとのことで親兄弟同士が闘うということは、日常茶飯事のことです。
当時の歴史の流れとしては信長は、細川藤孝には父祖以来相伝してきた京都南郊の長岡にある勝龍寺城を信長の寄騎を使って取り戻させた。
勝龍寺城
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和田惟政も摂津城を賜っている。
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そして、永禄11年18日をもって足利義昭は征夷大将軍になりました。これを義昭は喜び信長の官位をあげようとして、副将軍という職を新たに設けて、信長に提案してみたが、信長は見事にそれを断っています。
年号が元亀になると、織田軍は様々な攻撃にあいます。まずは、石山本願寺。石山本願寺とは結局10年間闘うに至ります。これを石山合戦といいます。当時石山本願寺は大阪城の立っている場所に本拠があり、信長が新しい首都を構築するためにも、大阪に本拠を移すという計画があったので、石山本願寺に対して退去を命じますが、石山本願寺は見事にことわり、そこから戦いが始まります。この戦いに関して言うと、日本国の約10%くらいが信者だったりしたので、その人数から換算すると10カ国ほどの領地を持っているような組織でもありました。そこと信長は闘うに至る。
当初は織田勢も本願寺との戦いは不利であったために、この戦いを諦めようとしたら、朝倉家とこの時は既に断交していた浅井家が織田方の坂本城を襲い、岐阜への交通を断ってしまった。この時が信長最大のピンチでもありました。本願寺との戦い、三好残党掃討作戦、浅井朝倉連合軍との戦い。伊勢長島の一向一揆殿戦いでは、信長は弟の信興が戦死をしている。その弱り目祟り目の状況で足利義昭は、信長はもうおしまいだということもあり、諸方の大名に対して、信長を滅ぼせという意味の手紙を送っています。
そして、義昭の仲介で(いやいやながらであったものの)信長と朝倉・浅井連合軍は和解をし、それぞれの国に戻ることになったのです。これが元亀元年のこと。翌元亀2年においても信長は危機的な状況で、まず
してしまいました。
信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六 |
こんな状況で信長が決めたことは叡山の寺という寺を焼き、僧俗を皆殺しにするということで、これは元亀2年に実行をしました。その理由としては、叡山は朝倉・浅井を支援していたので、この勢力と手を切れと。切れば諸国に点在している領地は返してやるが、そうじゃなければ尽く焼き尽くすがよろしいかという最終通告をしました。もちろん、叡山は聞き入れなかったため、信長は尽く、叡山を焼き払ってしまいました。凄いですね。
三方ヶ原の戦いが行われたであろう場所
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元亀3年甲斐の武田信玄が腰を挙げて、上洛を目指すべく行動を開始しました。この武田軍を迎撃するために、織田徳川連合軍は三方原で待ち受けるも、武田軍に一蹴されてしまうのです。(三方ヶ原の戦い)
この元亀2〜3年にかけては、いわゆる天才的な戦国大名が没しています。
槙島城があったであろう場所(京都府宇治市槇島町大幡)
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しかし、武田信玄の死は極秘扱いにされ、そうとは知らず義昭は信長に対して兵を挙げるものの、信長に逆に返り討ちに会い、謝り、信長も兵を引き上げて岐阜に帰ります。ところが、義昭は宇治の槙島城に拠り、信長を滅ぼすべしという御教書を全国に送り、その御教書が小寺家にも届きました。しかし、小寺家が動く前に、信長が槙島城を包囲し、義昭を追放してしまったので、ここに足利将軍家が滅亡しました。
これによって、幕府方であった細川藤孝、荒木村重は織田家の大名となったものの、和田惟政は高槻城に籠り、信長に抵抗をするも、救援軍もないということもあり、あっけなく斃され、和田惟政は首を刎ねられました。