2014年2月28日金曜日

播磨灘物語(1)白南風(しろはえ)

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
年が元亀から天正にあらたまり、播州は黒田官兵衛が仕える小寺氏、別所氏、赤松氏などが小競り合いをするようないかにも地方の田舎大名のやりとりが続いていた。ところが、中央では天正3年織田氏と徳川の連合軍が長篠で武田勝頼を率いる武田軍と決戦し、圧勝した(長篠の戦い)ことで「織田は終わりではないか」という風評がひっくり返ってしまっていました。

白南風(しろはえ)


この頃は小寺家内では、今後どこについていくかという評定が度々と行われていました。それはどこについていくのかというと
  • 織田家
  • 三好家
  • 毛利家
最後は、織田にするのか、毛利にするのかということになるのですが、織田は新興大名ということもあり、長島の一向一揆や比叡山の焼き討ちといった、とても危ない集団であるという認識があり、一方で毛利は中国の律儀ということもあって、頼ってくるものは大事にするという対応する大名であり、織田のような危うさはありません。ただ、この二つの大名の違いは、天下を狙っているかどうかということで、織田家はそれが明確であり、毛利家の場合は、自家を保存するということを第一義と考えているので、天下統一ということは全く考えていないというものでした。

この会議の中で、官兵衛は当然のごとく織田家を支持し、他のメンバーは反対をしたのですが、それを押し切り、小寺藤兵衛をして織田に名簿を出すというところまで持って行きました。この場合大名が他の大名に名簿を差し出すというのは、臣従しますよということであり、この場合ですと、小寺が織田に自家の家来の名簿を提出して、帰属しますよということです。官兵衛は藤兵衛がOKがもらったので、織田に会うべく、東へ向かいました。

姫路の東隣りは、既に織田圏になっており、その出先機関が花隈城で城主は荒木村重でした。官兵衛は荒木に連絡を取り、荒木からはまずは花隈城まで来られよということであったので、花隈城に行きました。

花隈城(現在の花隈公園)

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花隈城では、村重は伊丹城にいるということだったので、官兵衛一行伊丹城に向かいました。
伊丹城(有岡城)

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官兵衛一行が伊丹城の城外にいると、村重の家臣が迎えに来てくれて、その家臣が有名な高山右近(ドン・ジュスト)でした。(この流れは司馬さんの創作と思われます)その後縄文まで来ると、身分ありげな武将がまっていて、その武将が中川瀬兵衛。この瀬兵衛も勇猛な武将として有名です。この中川瀬兵衛の家系は、大名として織田、豊臣、徳川、明治維新まで続き、竹田藩7万440石。(大分豊後)その後、官兵衛は、織田家の軍団長である荒木村重に対面をして、この項は終わります。