長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵) |
白南風(しろはえ)
この頃は小寺家内では、今後どこについていくかという評定が度々と行われていました。それはどこについていくのかというと
- 織田家
- 三好家
- 毛利家
この会議の中で、官兵衛は当然のごとく織田家を支持し、他のメンバーは反対をしたのですが、それを押し切り、小寺藤兵衛をして織田に名簿を出すというところまで持って行きました。この場合大名が他の大名に名簿を差し出すというのは、臣従しますよということであり、この場合ですと、小寺が織田に自家の家来の名簿を提出して、帰属しますよということです。官兵衛は藤兵衛がOKがもらったので、織田に会うべく、東へ向かいました。
姫路の東隣りは、既に織田圏になっており、その出先機関が花隈城で城主は荒木村重でした。官兵衛は荒木に連絡を取り、荒木からはまずは花隈城まで来られよということであったので、花隈城に行きました。
花隈城(現在の花隈公園)
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花隈城では、村重は伊丹城にいるということだったので、官兵衛一行伊丹城に向かいました。
伊丹城(有岡城)
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官兵衛一行が伊丹城の城外にいると、村重の家臣が迎えに来てくれて、その家臣が有名な高山右近(ドン・ジュスト)でした。(この流れは司馬さんの創作と思われます)その後縄文まで来ると、身分ありげな武将がまっていて、その武将が中川瀬兵衛。この瀬兵衛も勇猛な武将として有名です。この中川瀬兵衛の家系は、大名として織田、豊臣、徳川、明治維新まで続き、竹田藩7万440石。(大分豊後)その後、官兵衛は、織田家の軍団長である荒木村重に対面をして、この項は終わります。