若き日々
官兵衛はこの頃から上方に何度も行き、小寺家中でヒンシュクを買いながらも、京都にいきました。それは京都には新しいものがあるということもそうですが、世の中の情報が都に集中し、特に京都の南蛮寺で知り合った和田惟政との連絡を密に取ることで、将軍擁立運動に顔を突っ込むようになりました。
そして、上方に上り、堺の南蛮寺に和田惟政の居場所を確認したところ、近江野洲覚慶(足利義秋、後の足利義昭)とともにいるとのことで、官兵衛一行は覚慶が所在する少林寺に向かいました。
少林寺
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ここで、官兵衛は銭を和田を通じて義秋に献上します。ここには、弱体化した幕臣が集まっていて、その中には有名な細川藤孝もいました。細川藤孝はのちに織田、豊臣、徳川と仕え熊本50万石の祖となる人物です。今年の都知事選に落選した細川護煕元総理の先祖でもあります。
青い小袖
歴史の流れ的には、足利義秋一行が、近江の少林寺から若狭へ行き、その後朝倉家に移動しました。朝倉家の本拠地は敦賀一乗谷です。
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福井市特別史跡 一乗谷朝倉氏遺跡 トップページ
義昭(ここから義秋から変名)一行は朝倉家に滞在して、四方に自分を将軍にせよと手紙を送り続けていたのですが、朝倉家自体が保守的ということと朝倉家自体に不幸があったということもあり、義昭を奉じて京に上るということはしませんでした。そのため、将軍になりたい義昭は細川藤孝のすすめもあり、永禄11年織田信長に頼ることになりました。ここで、時代の動きが一気に加速します。この時義昭は信長から美濃西荘の立政寺を宿館として与えられました。
立政寺
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ここで織田家と義昭の窓口になったのが、明智光秀。もともと光秀は朝倉家に起居しながら、義昭を将軍にするべく東奔西走していたということもあり、当然の役目と言えます。
そして信長は京都に上るために、六角承禎を攻め、南近江の障害を取り除き、永禄11年秋には京都を制圧してしまいました。ここで戦国時代は織田信長が中心になります。官兵衛も信長の戦勝の祝賀のため上洛をし、そこで、和田惟政と合流をして、芥川城を攻め、事実上の和田軍の軍師として戦い、戦闘を指揮し、播州に戻るのでした。
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義昭(ここから義秋から変名)一行は朝倉家に滞在して、四方に自分を将軍にせよと手紙を送り続けていたのですが、朝倉家自体が保守的ということと朝倉家自体に不幸があったということもあり、義昭を奉じて京に上るということはしませんでした。そのため、将軍になりたい義昭は細川藤孝のすすめもあり、永禄11年織田信長に頼ることになりました。ここで、時代の動きが一気に加速します。この時義昭は信長から美濃西荘の立政寺を宿館として与えられました。
立政寺
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ここで織田家と義昭の窓口になったのが、明智光秀。もともと光秀は朝倉家に起居しながら、義昭を将軍にするべく東奔西走していたということもあり、当然の役目と言えます。
そして信長は京都に上るために、六角承禎を攻め、南近江の障害を取り除き、永禄11年秋には京都を制圧してしまいました。ここで戦国時代は織田信長が中心になります。官兵衛も信長の戦勝の祝賀のため上洛をし、そこで、和田惟政と合流をして、芥川城を攻め、事実上の和田軍の軍師として戦い、戦闘を指揮し、播州に戻るのでした。