織田と毛利の上月城をめぐるにらみ合いは、尼子勝久の切腹、山中鹿之介の降伏もあって、終了し、播州は織田軍の兵隊で充満しました。播州に来ている織田軍は、織田信忠を総指揮官としてその参加に、秀吉、滝川一益、明智光秀、荒木村重、筒井順慶、稲葉長通、峰屋頼隆、信長の次男信雄、信孝らでした。
秋浅く
織田の攻め方としては、まず三木城を包囲し、志方城と神吉城の攻撃をするのですが、まず先に神吉城を攻め滅ぼすことで、三木城と志方城の交通を断つというものでした。位置的には上の地図のように、
東から
三木城ー神吉城ー志方城
という状況です。ここで、神吉状を落とし、次に志方城を落とし、三木城を孤軍としてしまいました。なお、これらの一連の攻撃は織田信忠が中心に行い、秀吉は播州にはいませんでした。秀吉は6月下旬に三木城と連携している但馬に入り、ここはあっさり平定しました。
その後毛利及び紀州雑賀党の連合軍が別府の浜に向かってきたという報が、阿閇城を守る別所重棟から入り、その救援に官兵衛が向かいました。官兵衛の兵500人、毛利・雑賀党が8000人という人数です。この阿閇城の場所はと言うと広報播磨によると
http://www.town.harima.lg.jp/var/rev0/0006/7031/201111_34.pdf
ここで世に言う阿閇城の戦いが始まります。ここでも、敵が圧倒的に多かったということもありますが、播磨灘物語によれば、官兵衛の読み勝ちもあり、結局毛利・雑賀党を海に追い返してしまいました。その読みとは
- 敵が圧倒的に多いので、驕りがある
- 目的は上陸して羽柴本軍との野外決戦である
- しかし、最終的には毛利・雑賀党は孤軍になる可能性が高い
- もし敗軍になった場合に西に逃げても宇喜多直家がいるので、危険であるという考えが毛利にはあるから西には逃げない
- 要は、三木城に籠もっている別所氏へのスタンドプレイだ
- 三木城に対して救援を真剣に考えるというスタンドプレイ
- これをやらないと、反織田勢力からの信用を毛利・本願寺は失う
- したがって戦闘による兵の損耗を極端に嫌った
ということから、しっかり官兵衛は敵を撤退させ、これには信長、秀吉は喜び、官兵衛に感状を送りました。また、この戦いに母里太兵衛が指揮官としてデビューを果たしました。
一方で宇喜多直家への調略も進み、こちらも織田方に流れそうな様相を呈してきました。(結果的には織田方に転びましたが)