2014年3月26日水曜日

播磨灘物語(3) 別所衆

官兵衛は、1月ほど有馬で静養をしましたが、波多野氏、荒木氏が滅び、もう少し静養するように言われましたが、三木城が陥落した後に帰陣をしたのでは、本人の面目も立たないので、早々に三木城に向かいました。

別所衆

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この時期、小寺家には異変が起こっていました。それは至極当然のことで連携していた荒木氏が滅亡した以上、小寺家も自動的に滅ぶのは必定でした。その消息を更に調べてみると、小寺藤兵衛が城を捨てて逃げてしまい、ここに小寺家は消滅をしました。官兵衛の面白いところは、この藤兵衛を救えないものかと本気で思案をしていたということです。

この藤兵衛については、その後毛利を頼ったものの相手にされず、なんと官兵衛のもとに来て、織田から禄をもらえないかということで、秀吉に頼んでみたものの相手にされず、結局直接信長に頼んで、色々とあったものの最終的には命だけは助けてやるということで落ち着き、小寺を黒田家の客分として遇しました。心が広いですね、官兵衛は。
そして官兵衛は播州に戻り、秀吉と再会をしました。


播州での別所方の戦いは、果敢でその生死においても潔く、秀吉を感嘆させましたが、結局この三木城の攻防は、三木城への食料などの補給が重要なポイントになっていて、秀吉方はその補給を止めることに力をいれ、別所はそうはさせないということで、それが戦になり、この三木合戦の末期の大村合戦では秀吉の勝利におわり、三木城内は補給が絶たれたことで、更に飢えることになってしまいました。


秀吉は、三木城を更に孤立化させるために、三木城南にある八幡山を砦として、更に南にの宮の上城を攻め潰し、その流れで、三木城の南にある鷹ノ尾城、新城も攻め落としました。

その間、三木城では絶食が20日近く続いていて、城内には食料が底をついてきていました。秀吉方は本営を鷹ノ尾城に移し、情報収集をしていると三木城の困窮が極まっており、そこで秀吉と官兵衛は別所長治及び重臣の切腹を条件に降伏開城をすすめることに決めました。

別所もこれ以上の抵抗は無駄であることを悟り、秀吉方の降伏開城を受け入れることとし、宇野右衛門を使者に遣わし別所長治からの返書を秀吉に渡しました。その文書については
「不慮に、内輪之面々、覚悟を替之間
是非に及ばざるもの也。
御憐愍(ごれんびん)をもつて助け置かるれば、某(それがし)両三人、腹切るべく相定めをわんぬ」
というもので、秀吉はこの返書を受け取ると直ぐに返事を返し、併せて酒樽、肴等を別所に送りました。

この籠城戦は1年10ヶ月続き、毛利からの補給が絶たれたことで別所長治他重臣が責任を取ることでこの戦いが終了することになりました。それが決定すると三木城内では、
「足軽の末づえまで上の丸にあつまるように」という触れがまわり、生き残りのものが上の丸へ向かいました。上の丸では秀吉から送られた酒肴がひらかれ、別所長治からの言葉が家臣たちに伝えられました。その内容としては、
「よく仕え、よくつとめてくれた。あすは、和紙は浄土の仏身になる。きょうは別れの宴と思え」というものでした。

長治が一族が自害をしたのは天正8年1月17日。
辞世の句です。

別所賀相の妻
のちの世の道も迷はじ思ひ子を連れて出でぬる行く末の空

長治弟彦之進の妻
たのもしやのちの世までもつばさをばならぶる程の契りなりけり

長治妻照
もろともに消えはつるこそうれしけれ遅れさきだつならひなる世に

長治
今はただうらみもなしや諸人の命にかはる我身を思へば
ながはると呼ばれしこともいつはりよ二十五の春を見すてて

このあと自決のところで、賀相が荒れて、結局家臣から乱心扱いされて介添えされながら腹を切りました。

秀吉は長治以下3人の首実検を本要寺で行い、今後の戦いの拠点として三木城に入城しました。


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