2014年3月25日火曜日

播磨灘物語(3) 夏から秋へ〜村重の落去

この時期、織田軍が進めている作戦は4つで、対本願寺、対三木城、対荒木、対波多野氏で、この4つの勢力の共通点は毛利氏と手を組んでいるというもので、彼らは毛利からの支援があるということもあり、織田との戦いに踏み切ったという側面があり、毛利もできるだけそれに答えようと、必死の努力を重ねていました。

夏から秋へ

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信長がここですすめた作戦は、各方面の戦闘は休止させて包囲だけをして、毛利からの補給を断つということに力を注ぎました。


有名なところでは、九鬼嘉隆に日本には類のない巨艦を6隻作らせて、大阪湾の木津川に入り込んでくる毛利水軍を防いだという話があります。


また、秀吉の助言もあり、波多野氏を攻撃することを決め、波多野氏の降伏するものの、安土に送られ、磔の刑に処せられました。この波多野氏の敗報は、当然三木城の別所氏、有岡城の荒木氏に伝わり、双方の士気が相当動揺しました。

村重の落去

荒木村重の戦略は、毛利が来援するというものでした。また、毛利が荒木を調略するに際し、毛利が来援するから、そこで織田と決戦をして、信長の首をあげようというものでした。しかし、信長の戦略である毛利の補給を断ち切るという戦略で、荒木には毛利からの救援はあり得ないということが、明確になり、有岡城内では毛利が来ないのに、何故城に籠っているのかという声が出始めました。

城内がそういう心理状態になったことで、村重は、今度は自分が味方に殺されるかもしれないという恐怖心が出てきて、身一つで尼崎城に逃げてしまいました。天正7年11月19日有岡城は降伏開城しました。そして、栗山善助が入牢している官兵衛を救出しました。

官兵衛は半死半生の中、織田信澄と会い、信澄もまずは有馬に行って体をほぐせと。この状況については信長や秀吉には伝えておくと言いました。。

一方村重は尼崎城に籠もってしまっており、織田から出ている条件として花隈城と尼崎城を開城すれば、村重及び一族郎党の命は助けてやるというもので、荒木の重臣である荒木久左衛門が伊丹から尼崎城に向かい、そこで中に入れてくれ、入れないという押し問答が続きました。村重の説得に失敗した久左衛門らは、そのまま伊丹に戻らず逐電してしまい、これで織田との約束を守ることが出来なかったということもあり、荒木系の人質はことごとく処刑ということになりました。

この後、村重は尼崎城からも脱出をし行方不明となりました。(その後秀吉が天下をとった後に、秀吉の御伽衆となりました。)



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