2014年3月3日月曜日

播磨灘物語(2)信長〜英賀の浦

官兵衛は信長の元に行くことになり、ここから官兵衛の人生が大きく変わる出会いがあり、本書は更に面白くなってきます。


信長


新装版 播磨灘物語(2) (講談社文庫)
司馬 遼太郎
講談社
売り上げランキング: 881

まずは、信長と岐阜城で面談をします。

大きな地図で見る

ここで播州攻略を信長に依頼をし、信長から承諾を得て、その際織田家側の担当者は信長自らの指名で羽柴秀吉が担当になります。この辺りはどうして信長が秀吉を選んだのかということを考えてみると、一番力があるものに大きな仕事を任せるという信長の方針は明確だと思います。当時の織田家と言えば、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、荒木村重、羽柴秀吉が軍団長ですが、できるという点から見ると、羽柴、明智が筆頭という印象。このうち、柴田と明智は秀吉と戦って敗れます。

ここで、官兵衛は信長より秀吉がいる長浜に行けということでしたので、早々に長浜に向かいます。

長浜城


大きな地図で見る

そしてここで秀吉と官兵衛が運命的な出会いがあり、この時の出会いがきっかけで二人はお互いを認め合うことになります。

その後、信長が上洛するということを秀吉から官兵衛が伝えられ、小寺、別所、赤松で信長に挨拶にいきます。その周旋も官兵衛がまとめました。この時の模様は「信長公記」に記載されていますが、あっさりと書かれています。
「播州の赤松、小寺、別所、其の他、国衆参洛候て、御礼これあり」
とか書かれているだけでした。このようにして天正3年が暮れました。

英賀の浦

天正4年になると、小寺にはきな臭い噂が流れてきました。

  • 赤松や別所が毛利に通じている
  • 英賀(あが)衆の動きがあやしい

というものでした。特に英賀衆がおかしいというのは噂ではなく、どうやら本当のようで、実際に英賀衆が毛利の後援を受けて、小寺を襲撃してきました。



襲撃してきた理由は

  • 英賀の三木氏が毛利からの後援を得た
  • 小寺、別所、赤松が織田の味方になった
  • 三木氏の90%が本願寺門徒であり、その敵である織田についたという憎悪

この3点です。
この英賀城に毛利氏からの兵5000人を迎えて、姫路城と対峙しました。

この一報で赤松、別所、小寺は動揺するのですが、官兵衛は敵を観察し、大軍であるということにおごりがあるということがわかり、この作戦の目的は小寺氏を潰すためではなく、あくまでも威圧であると判断したため、偽兵を使って敵を追い払う作戦に出ました。

官兵衛がとった作戦は

  • 未明に敵に対して奇襲攻撃をし、攻撃をしても打ち捨てにして
  • 集合場所に兵が戻ったら、二度目の奇襲攻撃をする
  • そのうち夜が上げてくると、霧が立つのでその霧の後方から武者押しの声を数百の百姓を偽兵として沸き上げた

このことで、毛利は小寺は相当数の人数がいると誤解し、兵は退却を始めました。このことはすぐに岐阜に伝えられ、信長は即座に小寺氏に対して感状を出しました。

ちなみに当時の小寺、赤松、別所の位置関係は以下のとおりです。

この英賀衆の小寺への示威活動の後、毛利からの使者が赤松と別所に派遣され、入税します。どういうことを入税するかといえば、織田についていても、結局滅ぼされてしまうぞということでした。確かに信長の苛烈な性格や行動は当時知れ渡っていたし、一方で毛利家は律儀であるという評判があり、特にこの時は姉川の戦いによって朝倉家と浅井家は滅亡し、信長はそれぞれの当主の首をさらし、髑髏をとり、それに漆を塗らせて酒椀にしてしまった話は全国中に流布されていたということもあって、赤松、別所は当然動揺をしました。
そうなると、上の地図でもわかるように、もし別所と赤松が毛利に寝返ると、小寺の周りは出来だけになってしまい、家の存亡に関わるということもあり、播州に織田の兵を入れるしか問題を解決する手立てはなく、それを言うために、官兵衛は長浜に向かいました。

新装版 播磨灘物語(2) (講談社文庫)
司馬 遼太郎
講談社
売り上げランキング: 881