荒木村重が謀反をしたことで、官兵衛の立場が実に微妙な状況になりました。それは、官兵衛の主君である小寺藤兵衛が、裏切るのではないかということでした。
御着城
小寺家が織田につくと決めてから、藤兵衛の様子がおかしい。
- 藤兵衛から人質をだしていない
- 藤兵衛は信長に拝謁をしにいかない
- 藤兵衛は羽柴にも会いに行かない
そして、様々な状況や情報を集めて、かつ、官兵衛と同じキリスト教信者から小寺藤兵衛が寝返ったという情報を得て、藤兵衛が寝返ったということがわかったので、官兵衛は藤兵衛を諌めるために黒田家内での反対を受けながらも押し切り、御着城に向かいました。
御着では藤兵衛が毛利につくということを官兵衛に宣言しました。それに対して官兵衛はあと数日考えて欲しい旨を説得し、藤兵衛もその場ではそれを受け入れました。そのあと、姫路に戻った官兵衛は、家臣たちに対して数日後にまた説得しに行くということをいうと、家臣は大反対をしました。理由としては
- 今までの戦いには小寺は全く戦わず、いつも黒田家だけが戦い敵を撃退してきた
- しかし、黒田の者は小寺に行けば陪臣扱いで、直接藤兵衛に会えないという差別に遭っている
- 武力的な実力は黒田は小寺を大いに上回っている
ところが、官兵衛が不思議なのは下克上の世の中でありながら、あくまでも自分は小寺家の家臣であるという立場を貫いている態度でした。一方で御着城では既に官兵衛を殺すということを藤兵衛以下家臣に至るまで決めており、その中で官兵衛は登城しました。
官兵衛は藤兵衛に拝謁をして、織田につくということを改めて説得したところ、藤兵衛は荒木を説得するよう命じ、官兵衛もそれに服し、荒木を説得するべく伊丹に向かう一方で、小寺から荒木へ官兵衛がそちらに行くので殺してもらいたい旨の一報を送りました。
摂津伊丹
官兵衛は御着城で荒木を説得せよと小寺藤兵衛に命じられ、姫路には戻らず、そのまま伊丹に向かいました。ところが伊丹の有岡城に着き、城番に名前と荒木摂津守に会いに来た旨を伝えると、騒然となり、腰のものを取られて、そのまま有岡城の牢に入れられてしまいました。
そこで村重は牢にいる官兵衛に対して加藤又左衛門という者をつけました。この加藤はその後官兵衛の牢の中にいる官兵衛の世話をするわけですが、ここでも新しい運命がうまれます。播磨灘物語には書かれていませんが、この後有岡城が落城した際に、官兵衛は救出されるのですが、この世話が縁で、又左衛門の子を養子として引き取り、後々まで繁栄します。黒田一成と称します。このことはこれを調べて初めて知りました。
黒田一成ーウィキペディア
一方で黒田家には官兵衛が荒木に囚えられてしまったという連絡が入り、荒木からも預かっているとの連絡が入りました。このことで官兵衛の父宗円入道は考え、黒田家を保全するということを決めました。これは具体的には、黒田という家を守るために、官兵衛を見捨てるということでした。
宗円が偉大であったのは、この緊急事態において「今日から自分が主人である」とは言わずに、あくまでも松寿丸を立てるという秩序を明確にし、弟の休夢斉及び官兵衛の実弟兵庫を加えた集団指導体制にしたことでした。
信長においては、この荒木謀反に対して大変な危機感を持っており、大量の兵が荒木攻撃に招集されています。
- 上杉と対峙していた北陸軍の半分ー前田利家、佐々成政など
- 明智光秀
- 信長嫡子信忠
- 丹羽長秀
- 滝川一益
などが参陣して、また、信長に対しても官兵衛が幽閉されたことが伝えられ、これは小寺が荒木についたということで、当然のごとく黒田も小寺と同じ歩調をあゆむであろうということになり、秀吉に対しては安土にいる松寿丸を殺せという命令がくだされました。
その命令を受けるときに竹中半兵衛が同席をしており、即座に自分が対応しますと言いました。ここには秀吉への心配りがあり、秀吉がそれを自ら受けると言えば諸将に対する秀吉の信用が失墜するので、そうならないように半兵衛が自ら責任を背負うというものでした。秀吉の聡さは、ここで半兵衛が松寿丸の命を助けるだろうということを即座に察したことで、このあたりの心理のやりとりと言うのは凄いのヒトコトだと思いますね。
信長は天神馬場に本営を据えました。天神馬場は色々と調べてみると、今の上宮天満宮の場所で、ここには後に秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦いでも、本営にしました。
信長は荒木を切り崩すために高槻城主高山右近、茨木城主中川瀬兵衛に調略をしました。右近に対しては「降伏すれば従前以上に厚遇するが、もし降伏しなければ日本のキリシタンの宗門を尽く潰す」というもので、瀬兵衛に対しては「自分への忠誠心を優先して、荒木を切れ。荒木を切ればこれまで以上に厚遇する」というものでした。