2014年3月12日水曜日

播磨灘物語(2)加古川評定

秀吉が、上月城、佐用城を落としたことを報告するべく、安土に向かい、その後本拠の長浜に戻って、兵を集めて、結局7500人の兵を引き連れて播州入りをしました。今後の対毛利戦についての打ち合わせを播州の豪族とするべく、加古川で会議を開くことになりました。


加古川評定


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この加古川城の主が、糟屋武則といい、後に賤ヶ岳の七本槍の一人になり、1万2千石の大名になるも、関ヶ原の戦い西軍についたために、領地を没収されました。
弥名寺(加古川城跡)

この時の官兵衛は宇喜多氏の情勢を図る一方、この加古川評定への地元の豪族を集めるべく奔走していました。この時の官兵衛の様子を司馬遼太郎さんは以下のように書いています。
官兵衛は播州において果たしている役割は、古代中国の戦国期にあらわれる外交弁舌家(縦横家)の蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)のはたらきに似ているかもしれない。
ここで登場してくるのが、別所氏ですが、この辺りでもう一度播州の豪族の位置図を確認します。

西から赤松氏の龍野城、黒田氏+小寺氏、その東に別所氏が位置しています。この別所氏が20万石近くあり、当時の慣習で新規の戦いをする際に、その先鋒となるのはその地で最も大なる家ということもあり、毛利攻めをする場合には別所氏を先方にするということは、以前から信長も明言をしていたところです。

この別所氏は、長治という当主を二人の叔父がサポートをしていました。一人は別所山城守賀相(よしすけ)と重棟の二人での兄弟で、この二人がものすごく仲が悪く、実際に派閥となっていました。この場合重棟は明確に織田派であり、そのことに対して、賀相が片腹痛い思いをしていたということも、今後の重要な要素となりました。

もう一つ重要な要素としては、播州という地域が人物を選別するときに出自というものを重視するという、かなり古い体質の地域であったということです。当時は新興の織田家が勃興しているということもありましたが、播州一体では、極限すれば黒田家以外は、その織田家というものを受け入れない体質の地域でありました。これはどういうことにつながるかというと、この播州に出張してきている羽柴秀吉に対して、もともと名の知れた武家ではないということから、蔑視したということであり、このことが別所氏の織田からの離反にも繋がります。別所氏がいかに秀吉を軽侮したかというと、「別所長治記」に次のような記述があります。
信長、浅智の故なり。およそ大将を立つるには、その人を選ぶ事、第一也。…氏も無き人を大将にしては、諸人軽んずるものなり。
この場合の「氏無き人」と言うのは当然秀吉のことを指しています。こういう空気であったため、加古川上での評定が始まる前から、もしかしたら別所氏は離反するのではないかという印象を秀吉と官兵衛は持ったのではないかと思います。実際に別所氏は20万石もあるので、それほど領地を外様と言える別所に信長が安堵するのかどうかという疑問もあります。

また、別所賀相にしても、弟の重棟が明確に織田派ということから、もし賀相自体が織田に味方を下としても、重棟の下風に立たざるをえないということもあり、それが嫌だったんじゃないかということも考えられます。こちらは僕の私見です。

話を評定に戻すと、秀吉が上座に座ると、評定が始まり、別所賀相らは秀吉が上座にいるということ自体が気に入らないのですが、秀吉から意見を述べて欲しいとあったので、三宅治忠をして意見を言わしめさせました。この事自体も秀吉に対しては無礼なことで、傲慢な人柄だったようですね。

ここで三宅が滔々と1時間近く長談義を始めて、秀吉は呆れさせました。あまりにも長談義だったので、それを中断させると、賀相らは怒り、三木上に帰城すると、当主の長治や重臣に対して「羽柴は我々を侮辱した」と言ってまわり、「別所長治記」にはこの羽柴の侮辱が別所をして織田への戦いに踏み切らせたとあります。

ここまで読んでみると、別所賀相にしても三宅治忠にしても、愚人であったとしか言いようがなく、最終的には別所氏は凄惨な滅亡になるのですが、これは一種の人災とも言えるのではないかと僕は思います。

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