2014年3月7日金曜日

播磨灘物語(2)播州騒然


羽柴秀吉は天正5年10月19日に播州に向かうべく、安土城に勢揃いしました。



播州騒然


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この時期は10月3日に松永久秀が信貴山城で滅亡しました。その15日後には秀吉の軍隊は播州へ向かいました。大変ですね^^
http://goo.gl/maps/4Gkib

官兵衛は秀吉を迎えるべく、姫路より東の時光寺で待ち、東から来た秀吉軍4000人と合流しました。

そのまま、姫路城に入り、そこで官兵衛は秀吉を驚かせます。それは官兵衛の居城である姫路城を秀吉にすべて進呈するというものでした。この部分は僕のとても好きなところなので、引用します。
官兵衛はさきに立って登りつつ、ふと立ちどまった。
「この城を、差し上げましょう」
と、いったのである。
秀吉も立ちどまった。評定に、驚きが包みおおせずに露(あらわ)れている。
この「驚きが包みおおせずに露(あらわ)れている」という表現がいいですよね。このあと司馬さんは秀吉に次のように発言をさせています。
「官兵衛、いま、何といった」
秀吉は驚きの表情をかくすために、足もとのつわぶきの茎を折り、汁を嗅ぐしぐさをした。
秀吉が同様している表現がすごくうまいです。
そして官兵衛の意図がわかったので、どこを貸すのかということを聞く秀吉に対して
「貸すのではござらぬ」
差しあげるのだ、といった。織田家の播州平定で中国入りの橋頭堡にせよ、ということである。
「どのあたりを」
秀吉は見あげながら、さらにきくと、官兵衛はこの城ぜんぶでござる、といった。
(大変な男に出遭ってしまった)
秀吉はおもわざるをえない。
官兵衛としては織田家に賭けているので、このくらいはっきりしたほうが結果的に良いという計算をしていました。

秀吉は城を明け渡したらどうするのかと聞くと、官兵衛の父が姫路の南に国府山に城があるので、そこに移るといい、実際に家臣ともども引っ越してしまいました。

一方で御着の小寺藤兵衛は、この官兵衛のやり方に対してあまりい気持ちを持っていません。そもそも姫路を与えたのは自分であり、それを主人に断りもせずに、あたえていいものなのかどうか。その後、官兵衛が秀吉に挨拶に行くよう促しても行かず、その辺りの妙味は秀吉にはわかってはいるのもの、こちらにも微妙な空気感があったようです。


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