2014年8月14日木曜日

竜馬がゆく〈4〉京の政変

この時期は文久3年。西暦で言うと1863年でこの年の8月にいわゆる朝廷の長州勢力を一掃する薩摩と会津が首謀した8月18日の政変がおこりました。この項ではどういうことが元も原因で、それがどういう結果になったかと言うことがよく書かれています。



京の政変

まず、姉小路公知暗殺事件がきっかけで薩摩の朝廷勢力がにわかに衰えました。暗殺された場所は禁裏の猿ケ辻という場所で、


この姉小路公知というのは、三条実美と並んで過激公卿の一人でしたから、京都政界においてこの暗殺は震撼させました。この刺客による切り込みに対して、姉小路公知が奪った刀があり、この刀は誰のものかということを調べてみると、薩摩の田中新兵衛の差料であるということになり、田中を逮捕したものの、奉行所での尋問している際に、自刃をしてしまったことで、姉小路公知暗殺事件の首謀者であるかどうかわからなくなったものの、結局薩摩勢力は、朝廷から駆逐されました。

高崎正風:引用元Wikipedia

このことによって朝廷においては長州の独走と言うことになったのですが、それを良しとしない薩摩が会津と手を握りました。そのきっかけとして薩摩の高崎正風が会津に申し出て、最近の長州のやり方は目に余るということもあり、ここで薩会同盟を組みました。そして8月18日に天皇の勅旨をもって長州系公卿20人に禁足を命じ、長州藩の堺町御門の警護を解きました。

長州兵は長州系公卿7人を擁して、長州に帰りました。これが有名な7卿落ちです。このことで長州の薩摩に対する感情が決定づけられましたし、のちの会津戦争の悲劇はここからはじまると言っていいと僕は思いますね。

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