2014年8月28日木曜日

竜馬がゆく〈5〉摂津神戸村〜薩と長〜元治の暮

蛤御門の変によって長州が惨敗し、神戸海軍操練所からも多くのものが長州軍に参加をしたということもあり、神戸海軍操練所は解散、勝海舟も江戸に召喚が決定し、更には幕府は長州征伐も決めました。





摂津神戸村


竜馬は神戸につくと、海軍操練所の解散をメンバーに伝え、ついてきたいものは残り、諸藩に戻るものは戻れと促しました。このメンバーが大阪の土佐堀にある薩摩藩邸に収容され、幕府から借りている練習艦観光丸を幕府に返しました。


薩と長

竜馬たちが薩摩藩から収容されている藩邸は、今の三井倉庫のある場所で、




竜馬たちが薩摩藩から収容されている藩邸は、今の三井倉庫のある場所で、現在は


このような碑が立っています。

この頃の大阪では、幕府は長州征伐の準備を進めており、尾張藩主徳川慶勝が征長総督として大阪城に入城していました。長州征伐に関しては、徳川慶勝の参謀として薩摩藩の西郷が大活躍をして、結局岩国城主吉川監物と打ち合わせの上、勤皇派の家老及び関連人物の処罰をすることで恭順するということで納め、3家老が切腹、高杉晋作や桂小五郎などは所在すらわからなくなってしまいました。竜馬は長州の動向を探るべく、中島作太郎を長州に向かわせました。

【徳川慶勝関連図書】

元治の暮


中島作太郎の報告によると、長州藩は佐幕派が政権を握ったものの、高杉晋作や都落ちをした五卿を護衛している土佐の中岡慎太郎や土方楠左衛門と奇兵隊が佐幕派化した長州藩政府と戦うことを決めた模様でした。