2014年2月28日金曜日

播磨灘物語(1)白南風(しろはえ)

長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
年が元亀から天正にあらたまり、播州は黒田官兵衛が仕える小寺氏、別所氏、赤松氏などが小競り合いをするようないかにも地方の田舎大名のやりとりが続いていた。ところが、中央では天正3年織田氏と徳川の連合軍が長篠で武田勝頼を率いる武田軍と決戦し、圧勝した(長篠の戦い)ことで「織田は終わりではないか」という風評がひっくり返ってしまっていました。

2014年2月27日木曜日

播磨灘物語(1)潮の流れ

この頃の小寺家は、黒田家の力ということもあり、域内は安定していました。仮に敵が来てもすぐに半鐘がなる仕組みができているので、簡単に撃退をすることも出来ました。

2014年2月26日水曜日

播磨灘物語(1)若き日々〜青い小袖

20代の官兵衛は、京都で色々なことを学び、遂に司祭ビレラから洗礼を受け、洗礼名として「シオメン」を与えられる事になりました。この辺りは、軍師官兵衛では触れられないところですね。どうしてでしょうか。

2014年2月25日火曜日

播磨灘物語(1)夏の雲〜姫路村〜彩雲

黒田重隆は、黒田家に伝わる目薬で大変な財をなしました。どれだけなしたかというと、数年で被官になったものが200人。この200人というの1万石の大名の動員力があるという意味です。ちなみに被官と言うのは、武士で言うと家来のことを言います。

2014年2月24日月曜日

播磨灘物語(1)流離〜播州〜広峰

記念すべき最初の作品をなににしようかとずっと考えていまして、大河ドラマの「軍師官兵衛」が放映しているということもあり、また、日本史でも過小評価されている黒田官兵衛という人物を多くの人に知ってもらいたいということもあり、まずは「播磨灘物語」について書いていこうということに決めました。

はじめに

はじめまして。

僕にとって司馬遼太郎さんの存在はとても大きくて、彼が1996年に亡くなった時のショックは今でも心に残っています。